7月博多座公演「梅と桜と木瓜の花」。
この作品で筆頭家老を演じました。
筆頭家老といえば家老の中でも最高位。
年配の方が演じることが往々にしてあります。
かつら合わせで少し白髪を入れようということになりました。
「年老いた人を演じる」
今までほとんどやったことのない経験。色々試行錯誤をした。
その中のひとつとして「ゆっくり話すこと」。
だけど何度ゆっくり話してもどうもしっくり来ない。
その時気づいた。
僕は「ゆっくり」話しているんだ、と。
言葉の一文字一文字の間を伸ばしているだけ。
その間には何も無い
年配の方の話し方がゆっくりなのは、ゆっくり話そうとしているのではない。人生、生き方、経験がその一文字一文字の間に満たされて「結果的に」ゆっくり話している。
年配の方はゆっくり歩こうとしているのではない。
体力や筋力、そして僕には到底及ばない多くの人生や経験がその一歩一歩の間に詰め込まれていて、第三者は「ゆっくり歩いている」ように見えるのだ。
「ゆっくり」ていうのは客観的な視点に過ぎない。
彼らは一生懸命話しているし、一生懸命歩いている。
僕は客観的な視点を演じようとしていた。
だから僕は筆頭家老・沢木一馬の人生を考え、仕える殿・黒田継高との人生を考えた。
その結果、セリフの一文字一文字の間に人生を埋めることができればスピードはある程度気にしなくて良いと思った。
ここで演技論を書きたいわけではなく、
世の中にある形容詞は客観的な価値だということ。
薔薇を「美しい」と思う人もいるし、毒々しくて「怖い」という人もいる。
その一人一人の価値観は誰に冒されることはないけれどあくまで客観視に過ぎず、その価値観をその対象に安易にハメ込み、否定・肯定するのは怖い。
それと同時に、自分自身がどのように見られてもそれは否定できないということ。
役者だけでなく人はみな、他人の価値観によって評価されていて、その全てが自分自身だと思っています。100人友達がいれば100人の自分がある。
「田村ってかっこいいね」という人もいれば「顔が濃くてキモい!」という人もいる。
「親が有名人で良いね」という人もいれば「大変だろうね」という人もいる。
20代まではそれを受け止めきれず「僕はこういう人間だ!」と必死にアピールしていたけれど、今はようやくその全ての評価は全部自分が思わせていると思えるようになり、全てを受け止め、認めて、笑って応えられるようになった。
客観視にすぎない、されど客観視。
だから、
自分を誰に合わせるなんて必要はないし
自分がこういう人間だなんてアピールする必要もない
ただただ、今を一歩一歩一生懸命過ごすこと。
それを人が評価してくれる。
そしてその評価は良くても悪くても全て本物。
またそれを全て受け止めて、認めて、
また一生懸命過ごす。
その結果、
僕の発する言葉一文字一文字の間に
僕の歩む一歩一歩の間に
自分の人生や経験が溢れていればいいな。