『昭和の男』と『平成の男』

昭和の男。

イメージ的には、「硬派」「真面目」「義理人情」とかかなぁ。

なんか人間的に厚みがあって、それでいて暖かい感じ。

今でもそんな人に憧れる。「僕もそうでありたいな」と。

僕は昭和52年生まれ。

そして現在、平成19年です。

ということは、平成になってから19年が経っているワケです。

とっくの昔に、僕は昭和よりも平成で過ごした時間の方が長くなっているのです。

最近気付いたんだけど、ビックリと同時にショックだった。

これって、『平成の男』になっちゃったってことかな?

なんか昭和の方が愛着があるんだよなぁ。「なんで?」って言われても答えられないけど。

『平成の男』って言われるよりも『昭和の男』って言われるほうが嬉しい気がする。

じゃあ『平成の男』ってどんなイメージかな?

「ケータイ」「IT」「投資」「セレブ」?

全然悪くないと思うけど、こうやって単語にして書くとやっぱり平成と昭和の違いを感じるかも。

最近、「あの頃に生まれて良かったなー」と思うことが多々ある。
ってか、最近の子供を見て「??」と思うことがある。余計なおせっかいだと思うけど(笑)

ディズニーランドにいるのに地べたに座ってNintendo DSをやってたりするんだよ!?ワケ分かんね。

まぁ子供が悪いワケじゃなくて世の中がそうしちゃってるのが大半だと思うけど、最近は「これは遊ぶモノ」、「これは勉強するモノ」といったように、既に「これで○○をするんですよ」って与えられてしまっていると思う。

だから子供たちは、遊ぶモノで遊ぶ事しかできないし、勉強するモノで勉強する事しかできない。そうだと世の中の人が全員同じような人になってしまう。

自分で動いて、探して、発見して、感じて、何かを得る。
そいういうプロセスが面倒だと思ったり、むしろ知らなかったりするのかもしれない。
色々なところに色々なヒントがあるはずなのに、それを見つけることができない

これって可哀想だ。

人から与えられるのを待って、そして100与えられたモノから最高でも100しか得ることができない。

前の日記の後半にも書いたけど、デジタル機器をはじめ全てのモノは、「利用するモノ」であると思っている。
「そこに何かがある」ワケではなくて、「それをどのように利用して何を得るか」だと思う。

モノを見て「どう感じるか」が重要で、それが「個性」であって、その色々な「個性」がぶつかり合うことによってたくさんの「ステキ」が誕生する。それができるのが『昭和の男』のような気がするなぁ。なんとなく。

同じ方向を向いた人だらけの世の中なんてクソッタレだ。なーんも新しいコトがうまれない。

近い将来、そんな日本になってしまいそうで怖い。

「平成」で飛躍的な発展を遂げた「ケータイ」「IT」「遊び」はどれも素晴らしいモノばかり。しかし、それぞれを同じ角度から見てしまっては「ケータイ」は「ケータイ」でしかないし、「遊び」は「遊び」でしかない。

「平成」というツールを「昭和」が利用する。

そんな男になりたい。

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